行政書士として独立開業する際、実務経験はもちろん、マーケティングや営業の知識が重要視されがちです。しかし、それらの土台として、一見すると専門外にも思える「周辺知識」が、長期的な信頼獲得と業務の質を大きく左右します。今回は、現役の行政書士法人の代表で、士業の経営戦略や業務基盤の構築にも精通する、ジェノモスの阪本浩毅氏に、行政書士が実務で本当に役立つ「開業前に学ぶべき知識」について、詳しくお話を伺いました。
業務の“基本言語”:民法・会社法の重要性
──本日はよろしくお願いします。行政書士の開業準備というと、どうしても集客や実務のことばかり考えてしまいますが、阪本さんから以前「基礎知識のインプット」も同様に重要だと伺いました。今回はその話をもう少し詳しくお聞きしたいのですが、具体的にはどのような分野を指すのでしょうか?
阪本:はい、よろしくお願いします。もちろん実務は最重要ですが、それと同じくらい大切なのが、業務の「基本言語」となる法律知識です。その中でも、まずは「民法」と「会社法」の再確認が機能しやすいかなと思います。
──民法というと、行政書士試験でも主要科目ですが、開業後もやはり重要になってきますか?
阪本:はい、試験以上に「実務の土台」として重要になりますよね。取り扱う業務よっては直接民法の知識を活用するシーンは多くないかもしれませんが、やはり基礎的な民法の知識は持っていることを期待される場面はありますので、民法の知識があまりにも無いようでは信用を失ってしまいかねません。
──なるほど…。では、「会社法」はいかがでしょう? 試験ではあまり重点的に勉強しない方も多い分野かと思いますが。
阪本:おっしゃる通りで、行政書士試験での優先順位は低いかもしれません。しかし、もし許認可業務をメインに据えて、法人顧客を多く相手にするのであれば、会社法の知識は民法と同等か、それ以上に使用頻度が高いと言えます。
──会社法が、許認可業務でですか? あまりイメージが湧かないのですが…。
阪本:最近の傾向として、M&Aや事業承継に関連した「組織再編」が絡むご相談が非常に増えています。
──組織再編、というと?
阪本:はい。「合併」や「会社分割」、「株式移転」といった会社法上の手続きのことです。例えば、「会社を合併させるのだが、今持っている建設業許可や産廃業許可を、新しい会社にスムーズに引き継ぐにはどうすればいいか?」といったご相談です。
──ああ、なるほど! 会社法の手続きと許認可の手続きが同時に発生するわけですね。
阪本:そうですね。このとき、会社法の知識がなければ、相談の入口にすら立てません。
しかも、こうした複雑なご相談は、顧問税理士や司法書士から「許認可の部分は行政書士さんお願いします」と持ち込まれるケースが多いのです。ここで会社法の知識があればコミュニケーションもよりスムーズになり、より良い案件進行に繋がります。
他士業連携の要:登記法の知識がなぜ必要か
──会社法と並んで、他にも「商業登記法」と「不動産登記法」を挙げていたと記憶していますが、これはまさに司法書士の専門分野ですよね?
阪本:はい、もちろん登記申請手続きそのものは司法書士業務ですから行政書士が行うことはありません。しかし、だからこそ業務上で登記の部分を司法書士にお願いする機会は非常に多く発生するため、その連携をスムーズ化で最低限の知識が必要になってきます。
──連携のために、ですか。
阪本:行政書士は日常的に登記簿謄本(履歴事項全部証明書や登記事項証明書)を読まなければならない機会があります。許認可申請では法人の登記簿は必ず見ますし、相続や農地転用では不動産の登記簿を確認します。そこに何が書かれているかを理解するのは基本中の基本になりますから、そのために登記法の知識は非常に有用です。
──確かに、登記簿が読めないと話になりませんね。他にはどのような場面で活用できるのですか?
阪本:登記手続きの全体的な段取りや、必要な日数感覚がある程度わかっているだけでも、お客様や連携する司法書士とのコミュニケーションの質が劇的に向上します。
──ある意味で他分野の専門家との「共通言語」として機能するわけですね。
阪本:そうですね。もちろん司法書士と同等の知識を持つ必要はありませんが、通り一遍でも登記法の知識を持っていると、お客さまとも司法書士の方ともコミュニケーションは格段にしやすいです。
他にも商業登記法は、法人顧客の代表者と話す際の「共通言語」として役立ちます。会社の代表者は当然、自社の登記内容を把握しています。その方と対等に会話ができるかどうか。この差が、許認可業務の依頼を引き出せるか否かを左右するケースも多々ありますよね。
信頼の土台:決算書が読めなければ仕事にならない
──そして最後に「会計・簿記」です。これはまた、随分と畑違いな気もしますが…。
阪本:そう思われるかもしれませんが、これも許認可業務、特に法人相手の業務を行う上では重要な知識になります。決算書が読めない行政書士は、業務に大きな支障が出るリスクがあるかもしれません。
──「支障が出る」とまで言われますか。
阪本:はい。例えば、行政書士業務の大きな柱の一つである「建設業許可」を例にとってみましょうか。建設業許可には、公共工事の入札に参加するための「経営事項審査」、通称「経審(ケイシン)」という手続きがあります。
──経審、聞いたことがあります。点数が出るとか…。
阪本:そうです。この経審の点数は、基本的に決算書の数字を元に算出されます。行政書士の重要な役割は、この決算書の数字を適切に読んで、「どうすれば評点が上がるか」を分析し、時には顧問税理士と意見交換をしながらアドバイスをすることにあります。
──税理士さんと専門的な議論が必要になるんですね。
阪本:また、多くの許認可には財産的要件が定められています。例えば「純資産額が500万円以上であること」といった条件です。
この「純資産額」が、決算書のどこ(貸借対照表の純資産の部)に記載されているのか、その数字が何を意味するのかが分からなければ、そもそも「お客様が許可を取得できるのか、できないのか」という入口の判断すらできません。
──それは致命的ですね。「ちょっと分かりません」とは言えませんし。
阪本:想像してみてください。クライアントである会社の社長や経理担当者よりも、依頼を受けた行政書士のほうが決算書を読めない……という状態だったら、どうでしょうか。
──「この行政書士さん、大丈夫かな?」と、仕事を依頼する前提の信頼関係が築けませんね…。
阪本:そうなってしまう可能性が大ですよね。そこで、会計アレルギーを克服する第一歩として、「簿記」の勉強は大きな助けになります。簿記はあくまで帳簿作成のルールであり、会計学そのものではありませんが、日商簿記3級相当の知識があるだけでも、決算書を読むための不安はだいぶ解消されるのではないでしょうか。
「将来の自分を助ける知識」への投資
──よく分かりました。民法・会社法、登記法、会計・簿記。どれも行政書士の直接業務とは異なるものも含まれますが、実務を行う上で密接不可分だということですね。
阪本:はい。行政書士として開業すれば、毎日が実務経験と信用の積み重ねになります。その中で、お客様や他士業の方と話している時に、「あ、この先生は(登記や会計のことも)ちゃんと分かってくれているな」と直接的にも間接的にも感じてもらえる瞬間が必ず訪れます。
──その小さな「わかっているな」という信頼が、次の依頼や紹介につながっていくわけですね。
阪本:そうですね。今回ご紹介したこれらの知識は、正直に申し上げて、勉強したからといって「明日すぐに10万円の報酬になる」といった即効性のあるものではありません。
──すぐに儲かる知識、というわけではないけれど、長くじわじわ効いてくる、と。
阪本:はい。これらはすべて「将来の自分を必ず助けてくれる知識」といえますよね。開業前や、まだ比較的業務に余裕がある開業初期のうちに、こうした分野に触れておくことで、業務遂行のスピード、他士業との連携力、そして何よりも顧客との信頼構築という、実務力全般の底上げが可能になります。
──まさに「転ばぬ先の杖」ですね。
阪本:そうですね。実務は走りながら学ぶしか無い部分もありますが、こうした基礎知識は、その走るスピードを上げ転倒のリスクを減らしてくれます。「将来の自分への投資」だと捉えて、早めに一歩を踏み出してみるのもよいと思います。
──本日は、実務に直結する非常に重要なお話をありがとうございました。



